タイムトリップ甲賀

たいむとりっぷ甲賀

東海道の宿場<近世へ>

古来より東国と京(都)を結ぶ東海道は政治的・軍事的に重要な交通路でした。慶長5年(1600)、天下分け目の戦い「関ヶ原の合戦」で勝利した徳川家康は翌年、東海道に五十三の宿場を設けて東海道五十三次を整備しました。現在の甲賀市には「土山宿」と「水口宿」が設けられました。天保3年(1832)に浮世絵師の第一人者安藤(歌川)広重は東海道を旅しながら各宿場町の風景を描き、傑作「東海道五十三次絵」が生まれました。

土山宿「春の雨」
水口宿「名物かんぴょう」
大雨の中を大名行列が川を渡る様子を描いています。この辺りは鈴鹿峠を境に天候が変わりやすかったのです。
水口の初夏の風物詩、青空の下で白いかんぴょうが干される風景が描かれ、以来、かんぴょうが一躍有名になりました。

土山宿 東海道 四十九番目

東の箱根と並ぶ、西の難所と言われた鈴鹿峠を行き来する旅人の休憩場所として、また御代参街道が合流していたことからもにぎわいました。軒を連ねた格子戸の家並み、旅人に木陰を提供した松並木など当時の風情を色濃く残しています。

格子戸
  • 旧土山本陣
  • 東海道伝馬館
  • 扇屋伝承文化館
  • 万人講常夜燈
  • 平成万人灯
土山宿の中央に位置し、寛永11年(1634年)三代将軍徳川家光の上洛に際して設けられました。初代土山喜左衛門が本陣役に任命され、以降明治3年(1870年)に至るまで代々これをつとめました。現在でも、大名などが宿泊した上段の間や、庭園などが当時のまま残されており、宿帳や関札・工芸品などの貴重な資料が文化財として保存されています。
旧土山本陣
東海道や土山宿の情報発信の拠点施設です。館内には、問屋場の復元展示、街道や宿についての展示、特産品販売コーナー、体験工房などがあり、わかりやすく宿場町を紹介しており、土山宿の歴史や文化にふれることができます。
東海道伝馬館
江戸時代に扇や櫛を販売していた商家「扇屋」を地域文化の伝承と東海道を散策する人々の憩いの場となることを目的に地域有志の住民がボランティアで改修。館内では扇屋に残されていた「お宝」や地元工芸品の展示、また土山宿特産品の販売が行われ、さらに日曜日には新名物「いく野そば」をご賞味いただけます。
扇屋伝承文化館
江戸時代の中頃、四国の金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈願していました。現在は、国道1号線の鈴鹿トンネルの上で、交通安全を見守っています。
万人講常夜燈
自然石の石灯篭では日本一の大きさを誇り、旧宿場町のシンボルになっています。夜間は火袋が点灯し、周囲から全体をライトアップし、昼も夜も往来する人々の目を楽しませてくれます。
平成万人灯

水口宿 東海道 五十番目

水口城の城下町としても整備され、「街道一の人留め場」と言われるほどにぎわいをみせました。名物は葛藤細工、干瓢(かんぴょう)でした。

旧東海道水口宿まちなみ
  • 水口城資料館
  • 水口曳山祭
  • 水口宿東見附跡
  • 水口宿本陣跡・脇本陣跡
  • 横田渡常夜燈
水口城は徳川三代将軍家光が寛永11年(1634)に京都へ上洛するための宿館として築城されました。明治時代に廃城となりましたが、復元され資料館となっています。当時の規模は復元模型でうかがい知ることができます
水口城資料館
享保20年(1735)、町民がまちの発展を願って曳山を建造し、水口神社に奉納しました。これが水口曳山祭(4月19日~20日/水口神社)の始まりだと伝えられています。旧東海道を歩けば、この曳山を収納している山蔵を見ることができます。
水口曳山祭
水口宿の東端に設けられ、「江戸口」と呼ばれ、警備の役割を担っていました。枡形の土居がめぐらされ木戸や番所がおかれた防御的な施設だったようです。西端には西見付があり「京口」と呼ばれ、同じ機能を果たしていました。
水口宿東見附跡
水口宿には本陣・脇本陣の各1軒が置かれました。本陣は大名、公家、幕府役人などが泊まる特別な旅籠で、脇本陣は本陣につぐ格式をもつ旅籠で本陣を補佐しました。本陣の建物はなくなりましたが、脇本陣の一部が現存します。
水口宿本陣跡
野洲川のこの辺りを横田川といい、参勤交代などで通行量が増加すると渡し舟や渡し賃の制度が整えられました。往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場の目印として、文政5年(1822)に建てられたのが常夜燈。東海道随一の規模です。
横田渡常夜燈

 

甲賀忍者<中世へ>

【知る】忍法:其の一

そもそも忍者とは?

忍者とは鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名に仕えて情報収集・特異な兵法武術による戦を主な仕事とし、武将たちの天下取りの裏舞台で活躍した個人もしくは集団の名称です。日本各地で集団が形成されていましたが、中でも甲賀忍者は良く知られています。

甲賀忍者の歴史

中世、地域の支配権力を強めようとしていた甲賀の土豪(半農半武の有力農民)たちが、長享元年(1487)に室町幕府将軍足利義尚(よしひさ)が本陣を構えた「鈎(まがり)の陣」(現在の栗東市)を夜襲。その功績により六角氏から感謝状を受け、「甲賀武士五十三家」あるいは「甲賀二十一家」と呼ばれるようになりました。その後、甲賀忍術武士団とも呼ばれ、全国の各藩で活躍し、戦乱の世を生き抜いたと語り継がれています。伝説の猿飛佐助は甲賀忍者だったと言われています。

【体験する】忍法:其の二

隠れ里や忍術屋敷へ行ってみよう!

各家の名字の多くは現在の甲賀地域の各地の地名になっています。実在した忍者屋敷には敵の急襲に備えた様々な細工が施されており、当時の忍者体験を楽しむことができます。

  • 甲賀流忍術屋敷
  • 甲賀の里「忍術村」
甲賀忍者53家の筆頭格にあたる望月出雲守の屋敷として300年前(元禄年間)に建てられたものです。外見は普通の屋敷と変わりませんが、内部には忍者の住まいにふさわしく、侵入者から身を守る為のどんでん返しや落とし穴などさまざまな仕掛けが施されています。
甲賀流忍術屋敷
広大な敷地に移築された忍術屋敷や手裏剣道場などが点在し、当時の隠れ里が再現されています。1,400点あまりの資料を展示した忍術博物館もあります。ちびっこ忍者道場では塀登り・綱渡り・からくり井戸などが体験(参加無料、貸忍者装束は有料)でき、人気です。
忍術村

【巡る】忍法:其の三

忍者の足跡をたどってみる

特殊な山岳武術としても知られる甲賀忍者。その忍術が育成されたのはこの地域の偉大な自然があったからでしょう。

  • 岩尾山・息障寺
  • 飯道山
  • 慈眼寺
  • 誓蓮寺
岩尾山の地名は、巌という言葉と深い関わりがあるようです。その名通り、岩尾山には大きな岩があちらこちらに見られ雄々しい様は印象的です。巨岩が積み重なった山頂や中腹にある息障寺は甲賀忍者の修行の場にもなっていたようです。
岩尾山
標高は664.2メートル、修験道を修める山岳信仰の拠点で、甲賀忍者の修練場であったといわれています。山頂には奈良時代建立の飯道寺跡があり、付近にはのぞき岩、不動明分け岩などと呼ばれる奇石・怪石が散在します。山頂に立つと遠方まで見渡すことができ、織田信長が国見をしたと伝えられています。
飯道山
戦国期、特に関ヶ原前夜の伏見城の戦で、徳川家に忠誠を尽くした甲賀武士(甲賀忍者) とその遺族100人が江戸移住した後、その子孫が甲賀に戻ってきて250年忌を行った時の位牌と石碑が残っています。
甲賀市甲南町野田/0748-60-2690(甲賀市観光協会)/JR草津線甲南駅から徒歩10分
慈眼寺
昔、伊賀忍者と結ばれた甲賀くの一(女忍者)が伊賀で亡くなり、伊賀の墓所から夜毎にしのび泣く声が聞こえたといい、それを知った誓蓮寺の住職がその墓を誓蓮寺に移して、ねんごろに供養したところ泣き声は静まったと伝えられています。
甲賀市甲南町上馬杉1435/JR草津線寺庄駅から車で15分
誓蓮寺

 

紫香楽(信楽)<古代へ>

天平時代、聖武天皇がこの地に「紫香楽宮」を造営しましたが、天災が続き、数年で遷都。長らく幻の都といわれてきましたが、平成12年(2000)に宮殿跡が発見されて以来、調査が続けられています。信楽焼は都を造営する際に瓦が焼かれたのが始まりと伝えられています。信楽焼といえばタヌキの置物で知られています。これは昭和26年(1951)にタヌキの置物に旗を持たせて天皇をお迎えしたところ、その光景を天皇が歌に詠まれたことがきっかけでした。信楽町ではこの愛らしいタヌキがあちこちで出迎えてくれ、陶芸体験、窯元めぐり、軒を並べるショップなどでアートな一日が楽しめます。

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